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新しい
古代日本史
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推古女帝と聖徳太子
July 14, 2003

 

Prince Shoutoku, his brother and his son (shotoku2.jpg--227x300)

 

蘇我氏と高句麗との深い関係

聖徳太子が思想的なものを仏教に求めたのに対して、蘇我馬子が求めたのは、絢爛豪華たる仏教文化でした。 それを象徴しているのが、馬子の飛鳥寺です。ところが、この飛鳥寺を戦後になって、考古学者が発掘したのですが、 学者たちは皆驚きました。なぜか?

蘇我馬子は百斉の王族とつながりがあったと考えられていました。従って、当然、 馬子が建てた飛鳥寺も百斉形式によって建てられたというように考えられていたのです。しかし発掘の結果を見ると、そうではなく、 その伽藍は高句麗形式に基づいていたのです。

馬子が百斉とだけ親しかったわけではなく、高句麗とは百斉以上に親しかったということが、これによっても分かるのです。 従って、蘇我氏が高句麗からやってきたということは、このことからも裏付けられると思います。蘇我氏の出身については、 このページ (蘇我氏は高句麗からやってきた) で説明しています。

この当時は、日本史を振り返ってみれば明らかなように、とりわけ朝鮮半島の政治情勢が日本の政治に強く影響し、あるいは反映されています。 従って、国際関係に明るくないと政権を保つことができなかったでしょう。この点、他の氏族を見渡す限り、蘇我氏に並ぶような情報の集積力と、 政治的手腕を持っている集団が見当たりません。ある意味で、蘇我氏は政権を担当すべくして、日本史に登場したといえるのではないでしょうか。

このことは、後年、蘇我氏を倒して、政権を奪うことになる藤原氏についても言えることです。どちらも渡来系の氏族です。共通点は、 国際関係に明るかったということでしょう。天智天皇は、唐と新羅の連合軍と白村江で戦い、敗れていますが、戦後の政治的関係を調整して、 唐との関係を正常化したのは、藤原鎌足・不比等親子です。この辺の事は、このページ (『壬申の乱』は 天智帝暗殺で始まった) で説明しています。リンクをクリックすると新しいウィンドーが開きます。

 

馬子の仏教観

この発掘によって、非常に興味あるものが出ました。それは何かというと、本来、仏舎利(仏の遺骨)をいれる塔の心礎から、 甲冑(挂甲)と馬具が出てきたのです。

馬子の仏教観を考える上で、このことは重要な意味があります。 この甲冑と馬具が馬子のものであれば、 蘇我・物部合戦で馬子がこれをまとっていた可能性が高くなります。本来は仏舎利(仏の遺骨)をいれる塔の心礎から、 五世紀の古墳時代の巨大な古墳と同じように、甲冑(挂甲)と馬具が出てきたのです。

これはどういうことかというと、馬子は仏教の思想が分かっていなかったということです。もし本当に理解していたなら、 戦争で血のついたものを平気で塔の心礎に埋めるような事はしないはずだからです。 つまり、馬子は仏教のうわべだけを利用して、豪華な氏寺を作ることによって、彼の権力を誇示していますが、 仏教思想、仏の慈悲といったものは、あまり理解していなかったということです。これが蘇我馬子の仏教観のようです。

下に示した系譜を見てもよく分かるとおり、聖徳太子は蘇我氏の血をかなり色濃く引き継いでいます。 いわば蘇我氏の一員であるといっても言い過ぎではありません。しかし、蘇我馬子とは、仏教観だけをとっても分かるとおり、 かなり違っています。この二人は、太子が年をとるに従って、対立を深めてゆきます。

Family tree of Prince Shotoku (shotoku03.gif--366x617)

推古天皇は蘇我氏の一員というほどではないにしても、彼女の母親・堅塩媛(きたしひめ)が、蘇我稲目の娘であるという点で、 蘇我氏とは非常に強いつながりを持っています。

この堅塩媛(きたしひめ)と彼女の妹の小姉君(おあねのきみ)は、上の系譜を見ても分かるとおり欽明天皇の後宮に入っています。 石姫皇女が皇后になっていますので二人とも側室ということになります。もちろん、これは、蘇我稲目が政権に近づこうとして後宮に娘を 送ったわけです。一人でなく、二人までも後宮に入れたという理由は、たとえ姉のほうに子供が生まれなくとも、 妹のほうが身ごもるかもしれないという打算があったでしょう。しかし、皮肉にも、この姉妹は二人そろって子供を生みます。多産の体質だったのでしょう。

蘇我の稲目にしてみれば、これ以上の喜びはないでしょう。二人の娘が、天皇の息子を生んでゆくわけです。その子供たちから将来天皇 になるものが現れるのも夢ではない。「いや、決して夢のままに終わらせてはならぬ」、と自分に言い聞かせたことでしょう。果たして、二人の娘から産まれた子供の中から、 後年、天皇が出ます。しかし、一人でなく、権力欲にかられて娘二人を後宮に入れたことによって、稲目は、 思わぬ問題の種をまいたことを後年になって思い知らされることになります。

 

堅塩媛(きたしひめ)と
小姉君(おあねのきみ)

蘇我稲目が送り込んだ堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねぎ み)は、それぞれ欽明との間に数人の子供を産みました。その中から、31代 用明、32代崇峻、33代推古の3名が即位しました。稲目は自分の孫から3 人も大王が出たのに対し、物部氏は、直系の娘を誰も大王の妃にすら出来ませ んでした。

蘇我氏の思惑通りに事がすすんでゆきます。587年に用明が没す ると皇位継承をめぐり、蘇我氏と物部氏は最後にして最大の対立期を迎えま す。この頃、物部氏の統領は尾輿(おこし)の子供である守屋(もりや)でし た。物部守屋は穴穂部皇子(あなほべ)を次期大王に擁立します。 一方、蘇我氏も稲目から馬子の代になっており、こちらはのちに崇峻として即 位する泊瀬部皇子(はつせべ)をたてます。

物部氏が推した穴穂部皇子と蘇我氏がたてた泊瀬部皇子は、ともに小姉君 と欽明の間に出来た子供です。つまり、実の兄弟なのです。それが宮中の二大勢力に かつがれ、争わねばならなかったわけです。蘇我氏と物部氏の政治権力闘争に巻き込まれたわけです。

物部氏は、なぜ穴穂部皇子を擁立したの?

当時の宮廷事情を考えないと、このことはよく分かりません。欽明の後を継いだ敏達の最初の后が急逝すると、 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が次の后になりました。この女性 は欽明と堅塩媛の間に産まれた姫で、用明の妹にあたります。そして蘇我稲目 の孫でもあります。このため蘇我氏の発言力はますます強化されました。

また、炊屋姫の政治力は相当なものでした。なぜそれが判るかと言うと、どちらかといえば廃仏派 であった敏達帝に巧みに取り入り、馬子の私的な仏教礼拝を認めさせるなど、 蘇我氏の勢力拡大を積極的に支援したようです。この炊屋姫こそ、のちの33 代推古女帝です。

こうして宮中が次第に蘇我氏側に傾いたため、物部氏は挽回を企図します。 それが穴穂部皇子擁立です。

でも穴穂部皇子の母親小姉君は
蘇我稲目の娘でしょう?

その通りです。だから穴穂部も当然蘇我系に思えます。でも、そうではないのです。
どういうこと?
というのは、小姉君の父はたしかに稲目なのですが、母親の出自につい て日本書紀は沈黙しています。実は、小姉君の母親には物部氏出身と思える節 があるのです。

ここで考えなければならないことは当時の皇子・皇女は一定の年齢まで母方の実家で養育されるの が普通でした。そして育った土地の名前をつける慣習がありました。飛鳥で 育った大王の娘なら飛鳥皇女と呼ばれるわけです。すると穴穂部皇子の穴穂も 地名に由来することになります。大和周辺に穴穂の地名は河内と奈良の石上に あります。皇子がどちらで育ったか分りませんが、どちらも物部氏の領地なの です。ですから小姉君の実家は物部氏である可能性が高くなります。

つまり、小姉君は蘇我稲目の娘で あると同時に、物部氏の娘でもあったということです。これは蘇我氏と物部氏 が宮中で勢力を伸ばす方策として、互いに婚姻関係を結んだことからきていま す。結局、物部守屋が穴穂部皇子をかついだのは、血縁で繋がっており、物部 の地で育った人物だったからです。

ちなみに小姉君と欽明の子供には、のちに用明の后となり聖徳太子を産む 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)もいます。

 

聖徳太子に対して
愛憎なかばする推古女帝

これまで述べてきたことから言えることは、この姉妹は当時あまり仲の良い姉妹ではなかったという事です。 しかも、後年、若い小姉君の方に、欽明帝の愛情が向いたようです。従って、この辺の愚痴を堅塩媛は娘の 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)、後の推古天皇にこぼしているはずです。愚痴をたらたら言わなかったとしても、 推古天皇は母親のそのような姿を見ていたはずです。

従って、推古女帝は母の堅塩媛(きたしひめ)への憐れみと愛情が強く、母がライバル視した小姉君(おあねのきみ)への憎しみから、 小姉君の皇子たちに憎悪の目を向けていたとしても、それほど不思議なことではありません。 推古女帝は、一体、聖徳太子に対してどのような感情を抱いていたでしょう?

聖徳太子の父は推古女帝の同母兄の用明天皇で、母は小姉君の娘の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女です。つまり、 太子は親愛感を抱く兄の血と、憎悪してやまない小姉君の血、その両方の血を受け継いでいるわけです。そのようなわけで推古女帝は、 聖徳太子に対して愛憎半々の気持ちを抱いていたでしょう。

兄の用明天皇が早く亡くなり、自分の娘で聖徳太子の正妃とした兎道貝蛸(うじのかいだこ)皇女も子供を産むことなく早く亡くなりました。 そのあたりから聖徳太子に対する推古女帝の目は、次第に冷たくなっていったようです。

 

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筆者紹介
Akira Kato (kato.jpg--180x135)
  • 日本とカナダの大学で教育を受ける。
  • 横浜にある大手の電器メーカーでコンピューターのソフトウエアの開発に従事する。
  • カナダのノースウエスト隼州政府・財務省に勤務する。
  • バンクーバーのランガラ・カレッジおよびサレーのクワンテレン・カレッジで講師を勤める。
  • ヨーロッパ、東南アジア、中国、北米を幅広く旅行する。
  • 現在、経営コンサルタント、フリーランス・ライターとして活躍している。



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