聖徳太子の惨めな少年時代
by Akira Kato
July 14, 2003
血の相剋
聖徳太子は父を早く亡くしたということもあって、家庭的には決っしてめぐまれてはいませんでした。むしろ悩み多き少年時代を過ごしたようです。やがて
高句麗の僧・慧慈を師として、教養と政治知識などを深めてゆきます。
ただ、血の相剋の中での苦悩が絶えずつきまとっていました。それだからこそ、更に深い仏教的な思想に惹かれていったようです。そこが馬子との大きな違いでした。
馬子は現実主義のマキアベリストですから、そういうことに悩んでいる聖徳太子をにがにがしく見ていたようです。聖徳太子には、また、
今で言うところの人間愛に目覚めていたようです。というのは、卑賎の者にも声をかけたからです。
当時、帝王たる者は卑賎の者には声をかけなかったのです。なぜなら大王は神と接する身であるからです。卑賎の者と話すと身が汚れると考えられていたのです。
馬子にしてみれば、
そういう太子は帝王にむいてないと思ったでしょう。そういうような事情で、二人の間には齟齬がどんどん広がっていったようです。それでも馬子としては最後まで、
何とかならないかという気持ちもあったと思われます。
なぜなら彼の娘の刀自子郎女(とじこのいらつめ)を太子に嫁がせているからです。彼女は山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を産んでいます。
馬子の分断作戦
推古女帝によって、小姉君(おあねのきみ)系統の皇子がつぎつぎと殺されていったなかで、泊瀬部(はつせべ)皇子だけが生き残ります。穴穂部(あなほべ)皇子は、
三輪君逆(みわのきみさかう)を殺そうとして物部守屋(もののべのもりや)と組みます。いよいよ物部守屋が三輪君逆を殺そうとでかけます。穴穂部皇子も一緒でした。
泊瀬部皇子もそのあとを追いかけます。
そこへ馬子が現れ、王者は汚れた者に近寄ってはいけない、と言って引き止めました。泊瀬部皇子は兄を救いたかったが、
兄が孤立していることを知って中立的な立場をとったのです。
馬子はなぜ泊瀬部皇子を
抹殺しなかったのか?
物部守屋にとって、味方の皇子といえるのは穴穂部皇子以外にはいませんでした。それでも、泊瀬部皇子は小姉君系なので、
守屋の味方になり得る皇子でした。このことから馬子は分断作戦にでたようです。
物部守屋を完全に孤立させようと考えたのです。
そのため、泊瀬部皇子を追いつめずに、蘇我・物部の合戦に泊瀬部皇子を引っ張りだすという作を用いました。小姉君系の泊瀬部皇子が馬子側に加わったことは、
物部守屋にとって大きな打撃でした。また、諸豪族も、泊瀬部皇子まで馬子に付いたというので一致団結したと思われます。そんなわけで泊瀬部皇子を助けたわけです。
ところが、推古女帝は小姉君系の泊瀬部皇子を毛嫌いしていたので、馬子は彼女を説得するのに苦労したようです。
この時、馬子は、泊瀬部皇子に対して大王にすると約束しました。もちろん馬子は彼を傀儡にするつもりでした。しかし、推古女帝は、大反対でした。
それでまた、馬子は、辛抱強く彼女を説得したのです。
しかし、自分があまりにも傀儡にしかすぎないと気付いた泊瀬部皇子は怒って馬子に抵抗します。しかし、結局、馬子に罠をかけられて殺されてしまいます。
馬子が推古女帝の了承のもとに東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って殺させたというのが真相です。さらに、馬子は、その東漢直駒を殺そうと計ります。
殺される前に東漢直駒は、
「私は、天皇は知らない。知っているのは大臣のみです」と言っています。
彼の言葉は、東漢氏の蘇我氏に対する忠誠心を表しています。つまり、自分たちにとって天皇の地位など関係ない、
自分たちの主君は蘇我氏であると言っているわけです。
いずれにしても、太子は少年の頃、このような同族の血塗られた争いや身近で起こった殺人事件ついて、嫌というほど見たり聞かされたりしたことでしょう。
早死にした正妃
そのような理由で太子は仏教へ傾斜すると共に、馬子に対しては屈折した思いを抱き始めたようです。馬子だけでなく、
馬子と組んで暗殺に絡んでいた推古女帝に対しても、
やりきれない思いを持っていたようです。
しかも感受性の強い若い時期に、世の中のどろどろとした人間関係をみてきています。
母親である穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女が、夫である(聖徳太子の父)用明天皇の死後、
その息子の一人である田目皇子(母は蘇我稲目の娘石寸名)と再婚した事など、太子にとっては割り切れないことであったかもしれません。
太子にとっては腹違いの兄が新しい父親になったわけです。また、太子は若い頃から先ほど触れたような、
同族争いの結果である身内の不幸にも出くわしています。
堅塩媛(きたしひめ)系の用明天皇の子として生まれた聖徳太子は14、5五才の頃、上宮(かみつみや)に住んでいました。真っ先に妃になったのが、
推古女帝の娘の兎道貝蛸郎女(うじのかいだこのいらつめ)です。おそらく彼女は14、5才の頃、上宮で位の一番高い太子の正妃になったと思われます。
ところが、どうも早死にしたらしいのです。なぜなら、二人の間には子供がないし、残っているのは彼女の名前だけです。子供がいない妃は、ふつうは『日本書紀』
に記載されません。たいてい、子供を産んだ者だけに限られています。たとえば、大王の後宮に何百人もの女性がいたとしても、
その中で子供ができた者だけが「娶りて」と書かれます。兎道貝蛸郎女の名前が記されたのは、彼女が推古女帝の娘だったからでしょう。その頃、
馬子は自分の娘の刀自子郎女(とじこのいらつめ)を太子に嫁がせています。
皇位継承
崇峻大王が亡くなると、誰が次の大王になるかが問題になりました。推古女帝は初め、聖徳太子を大王にと考えたと思われます。太子の母は小姉君系だけれども、
父は堅塩媛(きたしひめ)系で自分の兄の用明天皇です。自分の娘も太子の正妃になっていたことがあります。太子を将来の大王と望んでもごく当然のことでしょう。
仏教を導入することに積極的だった馬子は、これから日本を仏教王国にするためには、太子が自分にとって都合の良い皇子であると考えたはずです。ただ、
推古天皇がここで考えねばならないことは、物部大連が滅ぼされたことによって、政治を執る者が馬子一人になったということです。
推古女帝の思惑
五世紀の雄略大王以来、政治を執るのは大体、大連と大臣で、それを承認するのが大王(おおきみ)でした。ところが政治を執る人間が一人になってくると、
推古女帝にとっても危機感がつのってきました。しかも自分の命令によって、馬子は穴穂部皇子、泊瀬部皇子、宅部(やかべ)皇子と次々と殺していったのです。
そこで彼女は中立的な意味での執政者・皇太子が必要だと考えたようです。
推古女帝はたいへん賢明な女性で、後年、馬子がん葛城県(かづらきのあがた)を欲しいと言った時、「自分は蘇我氏の出身であり、
蘇我氏に対して親しみを持っているが、自分がそれを許したならば、大王としての権威をなくし、将来、ものわらいになる」と、はっきり拒絶しています。
そういう女帝だけに、ここはどうしても、単なる皇太子ではなくて執政官的な摂政を欲しがったようです。そこで、馬子、推古女帝、そして聖徳太子と、
三者が集まって話し合った結果太子が摂政についたのでした。推古女帝は祭祀の長としての役目を果たしました。夫の敏達は仏法を好まず、
炊屋姫はその敏達の皇后でしたから、殯(もがり)を6年もの長期に渡って行なっています。敏達がなぜ宮を磐余(いわれ)に持ったかというと、
磐余に宮を持つことによって大王としての権威を保とうとしたのです。
大体、三輪山の麓から天香久山手前あたりまでを、磐余と言いました。現在の桜井市の大半がそれにあたります。それまでの大王は、
磐余を非常に大切にしたのです。古代神道の聖地だったからです。継体以来、大王のほとんどがこの磐余に宮を持ちました。
そのようなわけで女帝も磐余に別荘を持っていました。
磐余からの脱出
厩戸王子は21才で摂政皇太子となりました。その時から彼は、飛鳥からの脱出を考えていたようです。飛鳥は蘇我氏が東漢(やまとのあや)氏の力を得て開いた都です。
蘇我氏は磐余を嫌ったのです。なぜなら、呪術的シャーマン的な古代神道と深くかかわっている場所だったからです。そういうわけで、彼は飛鳥に都を移したのでした。
これに対して、仏教を嫌った敏達は、皇后だった息長広姫(おきながのひろひめ)が死ぬまで百斉に宮を持っていました。現在の奈良県北葛城群広陵の百斉です。
百斉からやって来た帰化人たちがん、たくさん住んでいたと言われています。
広姫は皇后になってたった4年で死んでしまいます。敏達は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を次の正式な皇后にして、
磐余の幸玉宮(さきたまのみや)に宮を移しました。
聖徳太子が20才頃までいた上宮(かみつみや)も磐余にあったのです。馬子としては、飛鳥に宮を持たせたかったようです。しかし太子は、
推古女帝や馬子からも離れたかったのです。斑鳩宮は発掘上、相当な大きさの宮であることが分かりました。そういう面でも、若い太子は、
全く新しい自分なりの理想にもえていたようです。ただし、当初は政治的な権力は持っていなかったようです。
河内と大和の間の、大和川の根っ子を押さえる斑鳩は、太子にとって自由な場所であり、経済的にも軍事的にも要衝の地域だったのです。
太子が目を付けたのも当然だったでしょう。日本書紀を見ると、600年頃にはもうそこに居たとあります。25、6才から宮の建築を始めて、
600年には遷都したと考えられます。斑鳩から馬に乗って飛鳥に通ったのでした。今でも太子道と呼ばれる道があります。
しかし、摂政皇太子であったら飛鳥に通う必要はなかったはずです。この事実は、当時、太子は執政官の摂政ではあったけれど、
大王的な権力はなかったということを物語っています。
この当時の力関係は非常に複雑です。おそらく太子、推古女帝、馬子の三人が政権を分担していたのでしょう。推古朝の複雑さがみえます。
案内役の
卑弥子でーす。
推古女帝は こんな風に 座っていた んじゃないか と思いますが どうでしょうか?
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