なぜ厩戸王子なの?
by Akira Kato
August 3, 2003
厩戸という名前の由来
母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本
書紀などに見られます。これはキリストの生誕を彷佛とさせます。実際、
キリスト教の一派であるネストリウス派が中国に伝わったのは唐の時代ですから、
後世それを拝借して太子の誕生を脚色したのではないか、という説があります。
確証はないけれど、面白い話ですね。
上のようなウェブページを見かけますが、果たして確証がないのだろうか?私が初めてこの話に出くわした時には、
「必ず関連があるはずだ」、という思いに駆られたものです。なぜか?すぐに正倉院の宝物が思い浮かびました。
世界で最も古くガラスが作られたのは,紀元前2300年代以前にさかのぼると言われています。また、カットによってガラス容器の表面を飾る技法は、
紀元前8世紀ごろ始められたと言われています。
バビロニアのサルゴン王(紀元前722-705)の時代に透明なガラスが出来、カットの技法により削り出し、容器に仕上げる方法が発達しました。
この技法はペルシャのアケネメス王朝(紀元前558-331)のガラス工芸にも受けつがれ、素晴らしいガラス器を生み出すことになります。
ペルシャのササーン王朝時代(226-651)には、アケネメス時代のカットグラスが更に発展し、盛んに製作されるようになりました。
私たちが訪れる奈良の正倉院に現存する、上に示した紺瑠璃杯(こんるりはい)は、このササーングラスの一つです。(現物はもう少し色が濃いです)
正倉院というのは、ご存知のように聖武天皇の宝物などを収めた校倉(あぜくら)造りの建物です。
同天皇が没した756年にはすでに建立されていたということが、
最近の研究によって分かりました。この上に示した紺瑠璃杯(こんるりはい)は4世紀か5世紀に作られたらしいのです。従って、もし、
4世紀に作られていたとすれば、
それが、何百人かの商人の手を経て300年から400年かかって、上のシルクロードをたどりながらペルシャから大和へもたらされたことになります。
ということは、もうこの当時から、ペルシャから大和に至る人の流れがあったわけです。物が運ばれるということは、同時に珍しい話や面白い物語なども、
商人の口を通して伝わってくるわけです。キリストが生まれたのは、紺瑠璃杯が作られた時よりも更に300年程前です。
従って、キリスト生誕にまつわる話が商人の口を通して、聖徳太子が生まれるかなり以前に日本へ伝えられたとしても、時間的に十分考えられることです。
正倉院に伝わる資材帳を調べた結果、かなりの宝物が時代と共に入れ替わったり、新しく付け加えられたりしていることが分かっています。
上に示した紺瑠璃杯も、どうやら聖武天皇の遺品を納めた中にはなかったらしいのです。つまり、後から宝物に加えられたようです。
しかし、だからといって、聖武天皇の時代に日本になかったということにはならないと思います。
多少の時間のずれはあるにしても、紺瑠璃杯がペルシャから日本へ運ばれたということは間違いないようです。
キリスト生誕説話が伝わるためには、商人がキリスト教徒である必要はないと思います。当時はキリスト教は迫害されていたわけですから、
それだけでも十分にニュース性を持っているわけで、「迫害されているキリスト教というのは、こうだああだ」と、生誕説話も含めて、仲間内で説明し合ったでしょう。
それが回りまわって、大和まで伝わったと考えられます。
前のページで見るとおり、
聖徳太子の回りには渡来人がたくさん居ました。「母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産した」
従って、この逸話は当然キリスト生誕と太子を結びつけたものです。太子信仰というのは、太子がなくなってから100年もたたないうちに
すでに広まっていたということが文献上確かめられています。そんなわけで、この逸話は、太子信仰の中で生まれたのかもしれません。
しかし、厩戸という名前は、太子の死後与えられたのではなく、生まれてまもなくそう呼ばれたはずです。では、なぜ、
太子とキリスト生誕を結びつける必要があったのか?この辺のところを探ってみたいと思います。
太子の寵臣・
秦河勝(はたのかわかつ)
当時、さまざまな渡来人の集団がそれぞれの利害を意識して、お互いに権力争いをしていました。
百済系の渡来人、新羅系の渡来人、高句麗系の渡来人など、それぞれの集団が、自分たちの神を祭った神社を作っています。
このように、氏神を祭った神社を中心にして彼らは地域的に一族の結束保っていたようです。
すでに、このページ (聖徳太子の母親は
ペルシャ人だった?)で、いかに多数の渡来人が日本へやってきていたかという事を,くどくどと述べたので,ここでは繰り返しません。
太子の回りにはたくさんの渡来人がいます。彼の個人教授(慧慈、覚袈、慧聡)については、
すでに前のページで見てきました。
このぺージでは太子の寵臣である秦河勝について考えてみたいと思います。
新羅系渡来人である秦氏は、5世紀後半ごろ嵯峨野地域に定着し、ほとんど未開発だったこの地をすぐれた土木技術をもって開発した
という記録が残っています。葛野の大堰を完成させ、桂川一帯の治水に成功したのはその一例です。また農耕技術をはじめ、機織(はたおり)、金工、
木工など各種の手工業的技術にすぐれた集団を擁して莫大な財力を蓄積しました。秦氏は恭仁京・長岡京の造営、そして平安遷都にも大きく貢献しました。
このようなことからも分かるとおり、秦氏は山背(やましろ)最大の豪族として大きな影響力を持ちました。
広隆寺の創建者は、秦氏の長であった、この秦河勝(はたのかわかつ)です。
推古11(603)年河勝が聖徳太子から、上の写真に示した弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)をもらい受け、
この仏像を安置して祭ったのが広隆寺の起こりである、
と言われています。しかし仏像研究家によると、新羅から贈られた可能性も高いということです。
広隆寺と一般的によばれるようになったのは、8世紀後半です。
では、それまで、一体なんと呼ばれていたのかというと、一説には「景教寺」と呼ばれていたらしい。
しかし、河勝がネストリウス派キリスト教徒であったという資料はありません。ただし、秦氏のグループに信者がおり、こうした知識をもっていた人々がいた、
ということは十分に考えられます。
秦氏の祖・弓月君(ゆづきのきみ)
「日本書紀」応神天皇14年条に、弓月君(ゆづきのきみ)が百済より人夫120県を領(ひき)いて「帰化する」とあって、
この弓月君を「新撰姓氏録」では秦氏の祖としています。しかし、この弓月君とは、一体どういう人物だったのでしょう?
この人について調べてみたいと思います。
京都には太秦(うずまさ)と呼ばれる土地があります。太秦(だいしん)とは中国語ではローマ帝国のことを、そう呼びます。
紀元前221年に始皇帝がうち立てた秦という国は、このページ (聖徳太子の母親は
ペルシャ人だった?) で述べたとおり、ペルシャ人を通して西アジアの文明をたっぷり取り入れています。中国人の目には、西方にあると言う点で、
太秦(だいしん)と秦は関連のある国として映っていたのかもしれません。
紀元前207年に、この秦が滅びます。この滅亡の民の一部が朝鮮に逃れ、秦韓に住んだといわれます。この人たちの長者が弓月君(ゆづきのきみ)で、
応神天皇の時代に、この一族が大挙して日本へ渡来してきました。
弓月君は融通王とも呼ばれる秦氏の祖で、すでに述べたように、応神14年百済より帰化したと書紀に載っています。
秦の始皇帝の5世の孫ともいわれ、のち波多姓を賜っています。
秦氏は、ユダヤ人の景教徒だった?
この「弓月」には、どのような意味があるかと調べてみると、
「ユヅキ」は、「ユダ」のことで、太秦の「ウズ」も同じ意味ではないかと述べている研究者がいました。
太子の死後、腹心の秦河勝は追善のため太秦に広隆寺を興しました。この秦氏の「ハタ」も、
司教を意味するヘブライ語「パトリアーク」からきたものだ、と言います。
ハタとは、ネストリウス派では全教会の総主教のことをそう呼ぶそうです。
太秦はイエスを意味するヘブライ語「イシュ・マシャ」から来たものだとも言われています。
このようなことから、秦氏は、ユダヤ人の景教徒だったのではないかと述べています。
また、広隆寺には「伊佐良井の井戸」がありますが、これはイスラエルのことだ、と言う説があります。この寺域には、また、
大酒神社という社(やしろ)があります。
もともとは大闢(だいびゃく)神社といい、この大闢とはダビデのことをいうそうです。しかも、太秦には非常に珍しい三柱鳥居というのがあります。
ユダヤの「ダビデの星」を模したものだそうで、これは、また、キリスト教の三位一体を表すとも言われています。
なんとなく眉唾くさいと思いながら調べてゆくと、次のような記述に出くわしました。
世界中の神殿で、日本の神社に似たものは紀元前10世紀頃のイスラエル王国のものしかないそうです。
イスラエルの檜づくりの神殿には鳥居に似た二本の柱が立っていました。神官は禊(みそぎ)をし、白の着物を着て、神に酒と初穂を捧げました。
また、柏手(かしわで)を打って拝みます。しかも、清めに塩を使い、榊(さかき)に似た小枝でおはらいをしました。
こうしたことから、
日本神道は古代のユダヤ人が持ち込んだと、昭和初期、小谷部全一郎という人が言い出しました。
ペルシャの影響も見逃せません
ところで、上の法隆寺夢殿救世観音は生前の太子をしのび、その姿を模したと伝えられています。その光背は火炎を連想させます。
それは八角形の御堂の中で聖火を拝む、当時西アジアで大流行したゾロアスター教(拝火教)の儀式と関連がありそうです。
この夢殿に伝来された四騎獅子狩り文錦の図柄は、ササン朝ペルシャ(226~651)で大流行したデザインです。
シルクロードを経て中国に伝搬し、大和朝廷にも伝わりました。奈良時代の金属器や染織品の文様につかわれています。
これまで見てきたように、太子を取り巻く人間模様というのも、上に見る四騎獅子狩り文錦の図柄のように、そばによって、
じっくり見ないと、何がなんだか分からないような、複雑怪奇な様相を呈しています。
また、上の救世観音を見てください。この観音像は生前の太子をしのび、その姿を模したと伝えられています。
このページのトップで示した16歳の太子像と比べると非常に人間くさい印象を受けます。太子は、
むしろ、このような顔をしていたのではないかと私は思います。どことなく日本人の顔に似ているようでもあり、日本人離れしているようにも見えます。
前のページで太子の母親の穴穂部間人皇女の体内には8分の1のペルシャ人の血が流れていることを述べました。
この、どことなく日本人離れした容貌に、母親から受け継いだペルシャ人の血が関係しているのではないでしょうか?
ここで、このページのタイトルでもある、太子はなぜ厩戸王子と呼ばれたのか?について考えてみようと思います。
上の系譜を見ても分かるとおり、厩戸王子(聖徳太子)は用明天皇の長男として生まれています。従って、生まれた時から、
将来は天皇になるべく英才教育がなされています。用明天皇も太子を非常に可愛がったということが書紀に出ています。
要するに、今上天皇の期待はもちろん、蘇我氏の期待も一身に受けて生まれてきました。いわば期待の星です。
蘇我氏のリーダー、大和朝廷のリーダーとして生まれながらに期待されています。このような王子にどのような名前がふさわしいだろうか?
当然のことながら、一族の賢者たちが一堂に集まったにちがいありません。もちろん、渡来人の有識者たちも、その背後に顔をそろえています。
百済出身者、新羅出身者、高句麗出身者、東漢人(やまとのあやひと)、今来漢人(いまきのあやひと)、医博士、暦博士、採薬師施(くすりかりのはかせ)、
それに渡来系の僧侶たち、景教、拝火教(ゾロアスター教)、バラモン教に精通している学者たち。しかし、
この人たちの中で一番の発言権を持っているのは誰かと言えば、秦氏の長者です。太子が生まれた当時の長者は河勝の父親だったでしょう。
秦氏は経済的に蘇我氏と天皇家をバックアップしているのみならず、多くの技術者を政府に送り込んでいます。太子はつまり、
秦氏の希望の星でもあるわけです。
これまで見てきたように、秦氏にはキリスト教、景教に明るい人たちがいます。彼らにとって、太子は、預言者に等しい存在です。
しかも、太子と秦河勝の関係から見ても分かるとおり、蘇我氏と秦氏の間には、婚姻を通して密接なつながりがあっただろう事は、容易に想像がつきます。
と言うことは、太子の体内には、秦氏の血も流れているわけです。こうなると、太子の名前はおのずから決まってきます。
将来の大和朝廷の預言者にふさわしい名前は、当然のことながらキリストの生誕に似つかわしい名前と言うことになります。
それは何か?馬小屋で生まれたキリストにあやかって、馬小屋王子。
しかし、これでは、あまりにも直接過ぎて風情がない。馬小屋の匂いがしてくるようで趣味が悪い。となると、ちょっとばかり距離を置いて
厩戸となります。これできまりました。厩戸王子。おそらくこのような経緯で名前が決められたと私は想像します。
卑弥子でーす。 案内役も大変です。 今度は、太子が 16歳の時の 格好をしています。
下に、面白そうな リンクを載せました。
読んでくださいね。
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聖徳太子の個人教授には
ペルシャ人がいた
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